沈黙-サイレンス-

映画
02 /01 2017

私も大好き、巨匠マーティン・スコセッシによる日本小説原作ものということで注目の「沈黙」を鑑賞してきた。
「踏み絵」ぐらいしか知識のなかった隠れキリシタンの物語。

ポルトガルの布教者、日本の隠れキリシタン、政府の三者の関係により物語が進行するわけだが、俺は完全に政府側に共感した。
キリスト教を危険な思想として取り締まる、イッセー尾形、浅野忠信が演じるキャラクターだ。
もちろん、あんな残酷なやり方で棄教させる必要はないと思うけども、しっかりと思想論争をしかけるイッセー尾形の強さたるや。
一方のキリスト教司祭は、信仰への盲目さばかりが際立つ。
その状況において、何も救えない、希望も生み出せない邪教になぜすがり続けるのか、そこに疑問を感じつつも、なぜ積極的行動、思想改変を起こさないのか。
盲目的に信じ、苦悶することそれ自体さえも信仰であるかのような態度。
とても実践的、実用的とは思えない。
しかしそんな状況でも、その司祭を拠り所とする信者がいる。
まったく人間という生き物は興味深い。

本作を見る中で、浮かんだ疑問。
当時の隠れキリシタンは、なぜ邪教であるキリスト教を信じる必要があったのか?
取り締まられ、拷問されるのに、なぜそれにすがる必要があったのか。
元々、マイノリティだったり、迫害された人々だったのだろうか。

ポルトガル人はなぜそうまでして布教する必要があったのか?
人民救済の名目は建前で、やはり植民地づくりの目的があったのではないか。

日本政府はどういう思想的論理で、キリスト教を邪教と結論づけたのか?
劇中で感じたように、仏教を軸とした当時の日本政府の思想的到達点は、キリスト教を凌駕するものだったのだろうか。

そんな疑問を考え、調べたくなった。
こういう知的好奇心をくすぐる映画はとても好きだ。
さて、町山さんの解説を聞こう。

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

06 /30 2016
「悟り」とは何か。
非常に惹かれるタイトルのが、タマフルで紹介されていた

「悟りの境地」が確かに存在するとは言うけども、現代日には「悟りました」と宣言する仏教徒は存在しない。
悟りに至るにはどうすればよいのか、悟るとどうなるのか、何か明確な変化がおこるのか。
そんな疑問に明確に答えられることはない。
書はそんな、根的でまっとうな疑問に挑んでいる。

ちょっとは仏教に興味がある程度の自分では、なかなかに読むのが困難であったが、懇切丁寧に章立てされ、結論に向かう書は、決して素人を突き放すものではない。
とはいえ、もちろん書を読んだだけで「悟り」に到達できるはずもなく、文章化できないという領域まで登場する。
やはり実践しかないということである。
(本書では、その実践として、ヴィパッサナー瞑想というものが、度々言及される)

さて、実践なしに悟りはないということだが、分からないなりにも自分の中で消化したものを以下に忘備録として記録しておく。間違っているかもしれないが。

仏教といえば、「この世は全て幻。あらゆる煩悩を捨てよ。さすれば苦しみは消える」というイメージであるが、それは同時に生きることの否定にならないか?と常々思っていた。
しかし、それはあくまで出家信者への教えであるようだ。(悟ったひとが在家信者へ教えを説くにあたっては、ある程度のフリーハンドが与えられているという)
労働を否定し、渇愛を否定し、あらゆく欲を否定する。
しかも、理論で理解するだけではダメで、ありのままに物事を見ることができるようになり、自然とそのような認識ができるような領域に達しないといけない。
つまり、それが必要だと分かるだけではだめで、その状態に自然とあることが大事だと。
ふむ、ここまで書いてわからなくなってきた。
もう一回読もう。


神様メール

映画
06 /28 2016


特定の宗教を持たない自分には、ちょっとピンとこない部分もあったが、なかなかに興味深い宗教dis映画
あちらの人はこれをどのように見るのだろう。

劇中の神様は、自分勝手で最低なおっさん。
ほんと、こんなおっさんに自分の行動指針を委ねてる場合じゃねぇなと思います。
実際、宗教にはそんな側面をあるわけだし。。
自分で考え、自由に生きたいねぇ。


スポットライト 世紀のスクープ

映画
04 /21 2016


カトリック神父による幼児虐待事件と、教会の隠蔽工作を暴いた、ボストンの新聞社の物語。
ものすごい正義感に溢れた人たちによるものかと思いきや、当初その記事は見向きもされずに放置されていた。
新任の編集局長の指示により、この事件を追うことになったチームは、まさに”突き動かされる”ように事件にのめり込んでいく。
次第に事件被害の大きさ、深刻さが暴かれる過程はスリリングだが、同時にとても痛々しい。

この痛さは、事件を追う記者、サーシャ・ファイファーの祖母の表情に表れる。
祖母は敬虔はカトリック信徒。
信じるものに大きく裏切られた祖母の表情は、行き場のない苦悶の表情である。
事件を暴くことは正しい行いに違いないが、人々が信仰を奪われ、路頭に迷うのもまた事実なのである。
ゆえに”魂の虐待”。非常に罪深い。

やはり、高橋ヨシキ先生の教えてもらった悪魔主義に限るぜ。


オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

03 /03 2016
大田俊寛先生の本、2冊目読了。
前回読んだ『現代オカルトの根源』と重複するところがありつつも、よりオウムにページ数を割かれた内容となっている。
ロマン主義・全体主義・原理主義といったキーワードも、宗教学の中で解説されたことで非常によく理解できた。

それにしても麻原に、なんとも象徴的なバックグラウンドがあるのには驚いた。
生まれつき目に障害があり、家庭の貧困もあり、親元を離れて盲学校へ。
ひとつ、家族からの孤独という影を彼に落としている。
全盲の方が多い盲学校で、全盲ではない麻原は歪んだ全能感を獲得。
政治家や医者といったエリートを目指すも、成績振るわず挫折。
さらに、彼の兄も目に障害があり、なんとこれが水俣病の影響なのではないかという説があるらしい。
しかも、公害被害の地域そのものではないため、補償も受けられず、国家との対立構造をそこに宿している。

なんとも恐ろしく象徴的ではないか。
この”ちゃんと理由のある感じ”が、麻原も我々と同じ人間だという気持ちにさせ、自分もちょっとのきっかけでこうなってしまうのではないかと恐怖を感じる。
実際、社会的なエリートが多く、オウムで犯罪に手を染めたというし。




現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇

01 /29 2016


コレ↑を見てから、一気にファンになりました。
大学受験のときに病んで、新興宗教や霊能者のもとに教えを請いにゆくも、ことごとく論破してしまうというエピソードが最高な、大田俊寛先生。

この『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』では、ナチスやオウム真理教などへ通じる宗教の歴史を、「神智学」「霊性進化論」をキーワードに解説。
歴史上の宗教家(と言えるのか?)たちが教義を強化するために、いかに無節操に、ご都合主義的にあらゆる思想を取り込み、解釈し、流布してきたかがよく分かる。

最初は、この世の不安や恐怖となんとか折り合いをつけるために、世界のあり方や仕組み、どう生きるべきかを説明づけようとしたのだろう。
今となっては、その思想的格闘は微笑ましくも感じたが、それが排外主義やオカルティズム、または端的に嘘(シオン賢者の議定書のような)と結びつくことで、悲劇を招いてしまう過程は、心底恐ろしかった。
例えるなら、無知な厨二が悪質な都市伝説に影響されて、無差別殺人を犯してしまうような恐ろしさだ。

さて本書は、19世紀半ばからの、宗教界における主要な登場人物と、その思想について丹念に解説している。
『幸福の科学』にまでつながる、その丹念な解説は、私の頭を混乱させた。
そのとんでもない思想が、ときに魅力的に感じられたりしたからだ。
宇宙の真理や、死後の世界など、分かるはずもない問いに、一応の答えを与え、生きる指針を示してくれる宗教は魅力的に見える。これは確実だ。
しかし、このような世界に足を掬われないためにも、本書で学んだ体系的な知性をもとに、世界を冷静に見ようとする姿勢が大事だと思う。
著者のその姿勢を表すような一文を以下に引用して終わりたい。

しかし、果たしてわれわれは、その思想を一笑に付して済ますことが許されるだろうか。それもまた、あまりに一面的な短見と言わなければならないだろう。なぜなら、宗教と科学のあいだに開いた亀裂、すなわち科学的世界観や物質主義的価値観のみで社会を持続的に運営することが本当に可能なのか、長い歴史において人間の生を支え続けた過去の宗教的遺産を今日どのように継承するべきかといった、霊性進化論を生み出す要因となった問題は、根本的な解を示されないまま、今もなおわれわれの眼前に差し向けられているからである。





NHK特集 行 ~比叡山 千日回峰~

映画
06 /08 2015
最も厳しい修行と言われる『千日回峰行』。
その行を成し遂げる酒井雄哉さんをおったドキュメンタリー。
まず、山を飛ぶように走る、その身のこなしに驚く。
見ている間、なぜこんなことをやるのか?何か意味があるのか?そんなことばかりを考えてしまう。
しかし、見進めるうちに、行の過酷さに、そんな疑問はどこかへ消え、ただただ、凄いと思うばかりである。

行の締めくくりは、9日間飲まず食わず、横たわることすらせずにお堂にこもるという。
命の保証はない。
お堂に入る前に、生き葬式と言われる儀式が行われるのはそのためだ。
その様子を見に来た人が「生き仏を見るようだ」と拝み、涙したのが印象的だった。

この過酷な行を成し遂げた人はなにを言うのか。
それは、感謝と、これからも世のため人のために拝み倒す、という決意表明のようなものであった。
自分というものはない、ただただ人のために出来ることをやり続けるというものだった。


1日経って、これを書いている。
やっぱりその意味を考えている。
人生は修行だとか言うけど、それは結局、より楽しく生きるためだと思う。
人にやさしくなったり、より多くのことが出来るようになって、人に喜んでもらったり。
楽しく生きるためには、やっぱり人との関係性だ。
そういった、いわゆる“他己の精神”は、「これからも人のために拝み倒す」と仰った酒井さんに共通するが、あんなにもストイックになれるわけもない。
第一、ああいう生活の先に、俺という人間が、楽しさを見出せるとは思えない。

人それぞれの役割がある、ということなのだろう。
酒井さんは、いろいろあって、ああいう行いに自分の役割を見出し、ああいう生き方をした。
我々は、決して真似はできないけども、ああいうエクストリームな生き方に触れて、襟を正す。

自分のやり方で、行に励む。
それでいいのだと思う。


他己の精神。
それに気付いてか、気付かずか、折に触れ、寄付などを積極的にするようになった。
何か、社会の役に立ちたい、社会を良くしたい、そういう気持ちもある。
しかし、結局、間接的にお金をあげることでしか社会貢献できていない自分のいらだったりもする。
なぜもっと直接的なアクションができないのか、なんてコミュニケーションが下手なのか、と。
これからは、もっと直接的に社会貢献できるよう、行に励む。うん。




教養としての世界宗教事件史

08 /16 2014

教養としての世界宗教事件史 (河出ブックス)教養としての世界宗教事件史 (河出ブックス)
(2010/10/09)
島田 裕巳

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宗教なんてろくなもんじゃねぇと思ってたけど、やっぱろくでもなかった。
しかし、人間の営みとしての宗教の成り立ち、歴史が知れて非常に面白かった。

人を救うため、よりよく生きるために発生した宗教という概念も、広めようと組織化した瞬間に、本来の目的を忘れ、おかしな方向へいってしまう。
他宗教を攻撃し、異端を弾圧し、権力が生まれ、乱用され、腐敗する。
必ずこうなるもんだ。
人間なんてバカなんだから。

常に頭に置いておきたいね、そういう達観は。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

01 /10 2014

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
(2010/10/21)
佐々木 中

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タマフルの推薦図書特集でおなじみ、佐々木中さんの本を読んでみた。
まぁ、難しそうな本なので、今まで着手してなかったが、このお正月休みに集中して。
その目論見は正しく、腰を据えて、集中して読まないと、俺にはすんなりと理解できるような代物ではなかった。
久々に、脳に汗をかくような、暗い夜道を彷徨うかのような読書体験。
すべてを理解し、感動に打ち震えた!とは言えないが、自分なりに理解し、そして新たな世界を見たように感じている。

宗教とそれにまつわる世界の話。
俺は“宗教”というものをどのように理解しているのだろうか。
その理解が今回の読書により、まさに“書き換えられた”わけだが、ちょっと整理してみよう。

宗教というものはほぼ意識せず暮らしてきた。
自分んちの宗派すら知らないし。
世界では宗教対立による紛争が起こり、カルト教団が世間を騒がし、とても納得できない倫理観が『原理主義』などと呼ばれ、一部の人に信仰されていた。
そんなニュースを見てきたものだから、宗教なんてろくなもんじゃねぇなという程度。
その認識には、無意識だが政教分離が前提とされていて、
宗教なんてろくなもんじゃない=政治なんてろくなもんじゃない
という認識の結びつきは皆無であった。
「宗教はろくなもんじゃない」で結論づけようとも、「政治はろくなもんじゃない」で終わるわけにはいかず、それはよりよい世界にするために更新していかなくてはならない。
逆に言うと、政教分離を前提としていたから、「宗教はろくなもんじゃない」で結論づけて、終わることができた。

しかし、その認識自体が、自分の人生のみを念頭においた射程の短い認識であった。
中世キリスト教世界を秩序づける教会法は、法律であり、それはまさに世の中をうまく運営するための“政治”であった。

・・・何が書きたかったんだっけ?
まぁ、ここの下りから、なんか視界が開けたように、この本の面白さにのめり込んでいった。
それまでは、難しいし、とても読者フレンドリーでなはいその文体に嫌気がさし始めていたのだが。

とにかく、その教会法とキリスト教世界にも腐敗がはびこるわけで。
宗教がろくなもんかどうかはともかく、権力構造には腐敗がつきものであると。
そこで、立ち上がった革命家(立ち上がったのか、たまたまそうなったのか。)、ルターやムハンマドたちは、法たる文を読み、書き換えたと。
文学により革命をなしたと。

本を読むということが、いかに革命的な行為かということが切々と語られる。
読書をライフワークとし、人生を好転させていこうとする者には、非常に勇気づけられる一冊となっているのではないだろうか。
これ、もう一回読もう。


一日一生

10 /31 2013

一日一生 (朝日新書)一日一生 (朝日新書)
(2008/10/10)
天台宗大阿闍梨 酒井 雄哉

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BSスカーパーのBAZOOKA!!!「仏教渋くないすかナイト」で小藪が言ってたので読んでみた。
約7年かけて約4万キロを歩くなどの荒行「千日回峰行」を2回も成し遂げた、生き仏とも称されるお坊さんの本だ(今年の9月に亡くなっているけれど)。

肩肘の貼らないコラムのようなスタイルで、茶飲み話を聞いているようだ。
一日が一生、と思って生きる。
確かにそう思えば、辛いことがあってもそこで落ち込まず、次に向かっていけそうだ。

しかし、こういうブログを書いているということは、ある程度意識的に日常を送ることであって、それは長期的な自分の成長を促していることだと思っている。
長期的な成長と、一日を一生と思うこと。
なんか矛盾しているようでしっくり来ない、自分の中で。

まぁ、目の前のことに集中することは大事である。
そこに一日一生という意識を持ち込むと、もうそれは命を燃やさねば、この世の役に立たねばと思うわけで。

「一日一生」という言葉のみならず、本書には荒行を乗り越えたお坊さんの示唆にとんだ言葉がちりばめられている。
やっぱ仏教渋い。



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